りさ子のガチ恋俳優沼を見て死にたくなったおたく
ちゃんと感想かこ!と思ったら無駄に長くなりました。
GW現場なくて暇で死にそうな人(それは私)読んでね!
私が一番書きやすい文体で書いたので読みづらいかもだけどご容赦ください。
ネタバレは普通にします。
観劇から一週間以上が経ち、その間折に触れては(仕事が暇な時とか風呂に浸かってる時とか)この舞台のことを思い出していた。
なんとか感想を文章にまとめたいと思ったのだけれど、どうにもうまくいかなかった。
たぶん、私自身がまだ混乱しているせいだろう。
この舞台、ひいてはこの界隈について思うところは多くあっても、私はまだそれを当てはまる言葉を見つけられていない。それは考え続ければいつか見つかる言葉なのか、それともこの世界から足を洗う時がきて、数年後振り返った時にすとんと胸に落ちて来る類の言葉であるのかもしれない。
でも、見つかっていないからと言って何も書き記していなければすべて都合よく忘れてしまいそうな気がした。それは嫌なので、いくら私自身のことといえど許しがたいので、未来の私に思い出してもらうために書いておきます。
そういう状態なので書きながら本当に自分の気持ちに沿った文章なのかよくわかってない部分もあります。
あくまで私のための文章なので、支離滅裂だけど許してね。
「りさ子は都市伝説になったんだ」
友人と2人、劇場を抜け出してそう言って笑った。笑うしかなかった。
だってそうだろ、笑わずにどうしろっていうんだ馬鹿野郎。
春、新宿真昼間、日曜日、晴天。行き交う人たちの表情は明るい。
4月の日差しの中で、私の吐く息には暗く閉ざされた劇場の香りが濃く残っていた。
シアターモリエールのロビーは、スタンド花で埋めつくされていた。キャパに似合わない数と大きさの豪華な花たちが乱立し、訪れる観客の鼻をむせかえるような花の香りで塞いだ。
トイレ待ちの列に並びながら、見るともなしに豪勢な花たちを見た。私が名前を知らない俳優へ贈られた花の札には、お世辞にもうまいとは言えない字で「ありがとう!!」と書かれていた。中学生男子そのものみたいな文字に、ふにゃりと思わず笑った。笑ったけれど、同時に「いいな」と思っていた。
私も花を贈った時、あんな風にメッセージをもらえたらよかった。
隣に立つ友人に、そう思ったことは言えなかった。
客席はすでにほとんど埋まっていた。
主演の新垣さんのファンと思しき男性、若手俳優ファン、どこにカテゴライズされるのかわからない中年の人々など。バラエティに富んだ顔ぶれが並んでいる。
下手端の2列目に、目を引くミントグリーンのロリータ服の女の子が座っていた。彼女はすっぴんで、袖から伸びる腕は肉付きがよかった。友人達と談笑する声が高く響いており、思わず目をやった。
舞台俳優の追っかけというより、同人イベントにでもよくいそうな子だな。
そう考えるともなしに思って席に着いた。
開演を待つ間も、彼女の声は時折最後列の私のもとにまで届いた。うるさいな、と時々そちらに目をやっているうちに客電が落とされた。
劇中劇のカーテンコールから物語は始まった。
けばけばしい色をしたウィッグや、統一感がなく安っぽさの際立つ衣装を身にまとった俳優たちが一列に並ぶ。2.5次元舞台を模したものであることは一目瞭然だった。
一人の俳優が代表して挨拶し、まわりの役者にいじられ、一発芸を披露する。
目の前で繰り広げられる光景のあまりの寒々しさに、唇を舐めた。
けれどこれは、私たちがよく見ている光景だ。
馴染みの舞台のカーテンコールでもこれと似たようなくだりはいつも繰り返されている。舞台や役者に何の愛着もなければ、こんなにもくだらないものに見えるのかと、背筋が寒くなった。
カーテンコールが終わると、下手端にいた例のロリータ娘たち一行が舞台へと上がっていった。
彼女たちも役者だったのか、と驚きながらその挙動を見つめた。
さらに驚かされたのが、彼女たち三人の中でも一番地味だった女性が新垣さんだったことだった。別の舞台で見たときは美貌と輝くようなオーラが印象的だったのに、今目に映る彼女にはそのどちらもなかった。そのあまりにもおたく的な喋り方と動き方には、羞恥を覚えるほどだった。
三人の会話内容も実に馬鹿馬鹿しく聞こえるのに、それは普段私が友人たちと交わしているそれに相違ないのだった。
プレゼント、認知、カーテンコールでの出席確認。
きっと俳優厨以外の人間が聞いたら、正気か?と眉をひそめるのだろう。
けれどその滑稽さは「私たち」にとってあまりにも日常的なものだ。
羞恥心はすでにかなりのものになっている。けれど舞台は続く。
偽物のカーテンコールではなく、この物語が行き着く本物のカーテンコールを経なければ、舞台は終わらない。
主人公りさ子が推し俳優翔太に宛てた手紙を読み上げるシーンがあるのだが、己が普段推しに書いている手紙と似通っていて死にたくなった。客観的に見せられると、見も知らない相手にこんな重い感情を何通も何通も一方的に押し付けられて、並の精神の持ち主なら参ってしまう気がする。でもだからといって適度に力の抜けた手紙なんか書けない。書く方法がわからない。重苦しく暑苦しい感情を抱えてなきゃ、手紙なんて書こうと思わないのだから。
また別のシーンで、りさ子は翔太のバースデーイベントに出かける。
大胆に髪を切り、服の雰囲気もいつもとはまったく違う。
高いピンヒールに、パーティードレスまがいのワンピース。
いつも最前にいて、リプ返の時に「彼女いますか?」なんて質問して、さらにこの服装。
たぶん絶対同担に監視されてんだろうなあと思う。りさ子はおそらくTOではない。たとえおたくの中でだろうと、彼女は「トップ」に立つような人間ではない。りさ子の友人が同担を馬鹿にするシーンがあるが、おそらくりさ子たち三人も同様に揶揄されているのは想像に難くない。
りさ子は認知してもらう方法として、いつも着ている服と同じような柄の封筒で手紙を書いているらしい。絶対「あいつ今日も同じ服着てた」って言われてる、そう思って勝手にまた恥ずかしくなる。
翔太がファンたちとチェキを撮る様子もまた羞恥を誘う。
ファンの様々な要望に答えてポーズをとる翔太の姿はファンの(私たちの)欲望を映す鏡だった。
やがてりさ子の番が来る。
「いつもよりかわいい」なんて言ってもらえるかも、と期待に胸を膨らませて翔太の前に立つ。
彼は笑顔で言った。
「初めまして」
翔太がそう言った瞬間、あっと声を上げてしまいそうになった。
その台詞の後も芝居が続くことを恨んだ。おどおどと動揺し、無様な姿を同担の友人2人に晒すりさ子を見続けなければならないことが辛かった。
あの呪わしい台詞と共に一気に暗転、緞帳がギロチンみたいに落ちてこなかったことを恨んだ。りさ子のために、私のために今すぐに幕が下りてほしかった。
一瞬で砕け散ってしまった。
りさ子はたぶん、三人の中で一番通って、高額なプレゼントをして、認知されていることで他の二人に優越感を持っていたはずだ。
だけどよりによって二人の目の前でそれが打ち砕かれてしまった。
私たちはよく見ている。SNSに上がった写真を隅々まで見つめ、ブログの文言ひとつひとつを検分し、そこに意味を見出そうとする。ありもしないはずのメッセージを読み解こうと目を凝らす。
自分の都合のいいように解釈することに慣れていて、自分自身を誤魔化すことも得意だ。
だから、「はじめまして」以外の言葉でありさえすれば、りさ子が魔物になってしまうこともたぶんなかった(すでに魔物だったとも言えるけれど)。
けれどもう後戻りはできない。友人達のフォローの言葉もりさ子の耳には入らず、彼女は暗いところへと落ちていく(具体的には、これまで匂わせ行為のあったりさ子の彼女に対して嫌がらせを行い、翔太へストーカー行為をはたらくようになる)。
そして舞台は佳境(りさ子は翔太と翔太の彼女に刃物を向ける)を迎え、りさ子は叫ぶ。
うそつき、彼女いないって言ったじゃん。
これだけお金使って時間使ってつくしたのに、想うことすら罪?
この気持ちは誰にも否定できない、翔太くんにも。
理解と納得は違う。
悲痛な叫び、独白はガラスの破片のように胸に刺さる。
どう考えても狂っているのはりさ子なのに、私の共感対象はこの狂人なのだ。
すすり泣きの声が客席のあちこちから聞こえてくる。
きっと私と同じように、りさ子に自分を重ねた女たちが泣いているんだろう。
私はこの舞台を見て泣きたくはなかった。
泣いてしまえば負けだと思った。
目の奥に痛みを感じながら、唇を噛んだ。
隣でやかましく鼻をすする女が強烈に羨ましかった。途中入場してきてあっという間に物語に没入し、なんのてらいもなく涙を流せる見ず知らずの女を、そこかしこで鼻を鳴らす女たちを私は観劇中ずっと憎んでいた。
りさ子は「私たち」の要素を抽出し混ぜ合わせ固められた概念妖怪だ。それは私たちの誰でもあり得る。りさ子は「私」であり「私たち」だ。己のこんなにも滑稽で無様な姿を見せつけられて、それでどうして大人しく泣いたりできるだろう。
私にはできない。
自分を憐れんで泣けはしない。
それでも泣きたかった。泣いてしまえる客席に点在する「私」が、ひりつくように羨ましかった。
りさ子はカーテンコールにも出てこない。
最後の拍手が止んだ後、りさ子はぶつぶつと独り言を言いながら舞台を降り、出口からロビーへ出て行く。別の俳優に、同じような行為をはたらくことを示唆しながら。
その姿はさながら妖怪じみている。
この物語は現実よりはるかに優しく、エンターテイメントの領域にうまく留まっている。
翔太はりさ子のことを嫌いになれないと言うし、優しい人間であることが伝わってくる。彼女である篠戸るるも愚かではあるが、翔太のことをちゃんと好きでいる(正直、彼女は面倒なことになったら翔太の元を去ると思っていた)。
なにより、本作でメインに扱われるのは俳優とファンとの間柄についてであり、おたくたちの実情は軽く言及されるに留まる。
りさ子は貢いではいるが稼ぎの範囲内だし、同担の友達もいる。りさ子たち3人の不協和音の描写もあるが、強烈なものではない。
私がこの界隈でもっとも地獄的であると感じているもののは俳優たちとファンとの関係性にはなく、おたくたちの側にある。
その自意識、嫉妬。
俳優の彼女という一番妬ましいはずのポジションにいる人間へ向ける感情よりも、同じステージにいる(はずの)おたくに向ける感情の方が時に強烈だと感じる。
その地獄はこの舞台では描かれない。
この舞台を見つめ、その地獄的感情を自分に当てはめて苦い思いを味わうが、翻ってみれば現実はより苦い。
もし続編が作られてその部分が描かれるなら、是非見てみたいと思う。
この文章を書いていて、一つ気付いたことがある。
私はこの界隈にきて、常に羞恥にさらされていた。
もちろん、楽しくおたくをやっている。推しに出会ってからずっと楽しい。それは間違いない。
けれど私は常に恥じている。
容姿のこと、年齢のこと。
恥じる必要はないとわかっていても、若くて身綺麗な「いかにもな若手俳優のおたく」を前にいつも尻込みする。
俳優側からの視線にも怯えている。
彼らからはいったいどんな風に見えているのか。
美しく生まれついて、おたく的なこととは無縁に生きてきた人がほとんどの彼らの目には、いったいどんな風に。
2.5次元ってどんな風に思われてるんだろう。本心では馬鹿にしてたりするんだろうか。
それに、おたくたちが金や時間を燃やすように費やす姿を見て、果たして有難いと思ってもらえるのか。
私だったら、きっと怖い。
有難く思っても、怖い。
それでも追いかけることをやめられない。
あらゆる意味でりさ子は醜いし、その醜さは私のものだ。
誤解を恐れずにいうなら、「私たち」のものだ。
そして「私たち」はフィクションのりさ子よりもはるかに醜い。
それでも私はその醜さを嫌悪しない。
りさ子に救われてほしいとは思わない。彼女の救いは彼女自身にしか掴み得ないからだ。
この舞台のキャッチフレーズは「愛はいつも私を裏切る」。
こんなものは愛じゃないと否定する人もいるかもしれない。
それでもあえて私は「これは愛だ」と言いたい。
だって他に言葉がない。
いつか他の言葉に置き換えられるものだとしても、りさ子が翔太を好きで、その横顔を見つめていたその瞬間心を満たしていたのは確かに愛だったのだと信じたい。
愛と呼ぶには我々の抱える気持ちは暴力的で排他的で、独善的に過ぎるのかもしれない。
でも、それでも私は信じている。
「推しを愛してる?」そう訊けば、「ここ」にいるおたくたちは、たぶん笑って(泣きそうな顔をして)答える。
愛してるよ! と。
その愛を、信じている。